2016年5月29日日曜日

心理的な背景


なぜこの世界が存在するのか?


と疑問に思った事はありませんか?
私は子供の頃、これを深く考えるよりも先に
昔の人の次の様な意味の言葉を知って一旦は納得しました。

「世界がどの様に存在しているかは分かっても

世界がなぜ存在するかは分からない」


つまり世界がどの様になっているかは
物理現象や物理法則として説明できるとしても
世界それ自体、つまり物理現象や物理法則自体が
なぜ存在するのかは説明のしようがないと思いました。

しかし私が大人になって改めて色々な事を考えていると
この疑問に戻ってきてしまう様に感じられました。

それについて考える方法の一つとして
物理学の詳細を勉強してみようと
思う事もあったのですが、
それより先に次の様な事を考えてしまうのでした。

仮に宇宙の始まりが分かったとして、
その始まりの前は何があったのか?
それが物理法則や物理現象から推測される事象だとして、
ではなぜ物理法則や物理現象が存在するのか?
仮に統一理論が完成したとして
なぜこの世界にその様な理論が存在するのか?

そして色々考えた結果
世界に何か理由や偏りの様な物が存在していては
なぜその様な理由や偏りが存在するのかが分からない
ため、

仮に世界の存在理由を説明できる様な
理論があるとすれば、それは前提としては
何の要素も必用としない理論になる
と思う様になりました。

例えば世界が作られるのに物理法則が必要であり
それはもう前提として認めるしかないと言うなら
その時点でなぜ世界に物理法則が存在するのか
という部分の説明は諦めた事になります。

また物理現象を作るには物質やエネルギーが必要で
それはもう前提として認めるしないと言うなら
その時点でなぜ世界にそれらの要素が存在するのかは
説明を諦めている事になります。

つまり、あらゆる前提条件や偏りなどの
要素を必要としない理論の方が
世界の存在理由に迫れると思ったのです。


ところでニュートンやガリレオと同様に
初期の物理学の形成に貢献したデカルトは

「われ思う故に我あり」
という言葉を残した事でも有名です。

世界を観察している自分の主観は
絶対に存在していると言えるため、
主観の存在は否定のしようがないという意味です。

しかしながら主観は物理現象の結果として
発生しているはずなので、
物理現象がなぜ存在するのかを説明できれば
主観が発生する由来は一応は説明される事になるでしょう。

主観が観測する物理現象が実は
世界の実体とかけ離れている…
という可能性もあるにはあるのですが、
仮にそうだとしても我々は科学的な検証が
可能だと思われている事象を物理現象と呼び、
それを対象に分析を進めるしかありません。


一方、私が物理現象を考察する上で
どうしても否定できない事象がありました。
それは時間と空間です。

この時点で
「仮に世界の存在理由を説明できる様な
理論があるとすれば、それは前提としては
何の要素も必用としない理論になる」
という理想からは外れてしまう分けですが、
そもそも存在するという概念は
時間と空間がなければ成立しない気がするので
これは仕方がない事と言えるかも知れません。

また、時間と空間はなぜ存在するのか?
という問いは時間と空間が存在しないという状態を
定義できない以上は不完全な問いだと考える事も出来ます。

この様な経緯があって
私は時間と空間だけは前提として
存在している事を認めつつ、
またそれだけを前提として
物理現象が形成される可能性がある事を
説明する時空現象論を作りました。


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